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教員プロファイル

小林 憲司 教授(みなし専任)

 

Profile

(公認会計士、ビバルコ・ジャパン株式会社代表取締役)

[経歴]
日米で監査、税務業務を経験後、1997年よりM&A等の取引支援業務に従事し、2001年より新日本アーンストアンドヤング株式会社にてコーポレートファイナンス部担当取締役パートナー、2005年よりアーンストアンドヤング・トランザクション・アドバイザリー・サービス株式会社にてリストラクチャリング部門担当マネージング・ディレクターを歴任、2007年よりビバルコ・ジャパン株式会社代表取締役就任。日本公認会計士協会IVSC対応専門委員会専門委員。

教員の志史

「大学卒業そして会計監査法人での業務」
大学卒業後、ビジネスで成功できるようになりたいと思い、公認会計士の二次試験に合格し、日本の外資系監査事務所(Ernst Young)に入社しました。米国の先進的な監査実務を経験したかったのと、国際的な活躍ができるビジネスマンを目指した訳です。
公認会計士としては、監査業務が仕事の本流ですが、実際に監査業務を担当する中で、終わった取引の会計処理をあれこれ議論しても、正直それ程面白い仕事とは思えませんでした。そういった訳で、チャンスがあれば、海外に行くような機会がないかと思っていたのですが、たまたま同じ出身大学で同じゼミのOBが米国のロサンジェルスで公認会計士事務所を開業していることを知り、連絡をしてみたところ、こちらで働いてみなさいとのことで、1994年3月にアメリカの会計税務実務を経験するため渡米しました。

「アメリカでの仕事」
その事務所は日本企業の米国子会社がメインのクライアントで、個人の申告書及び中堅規模の米国法人の監査あるいは税務申告書の作成などを行い、幅広く米国の実務を直接担当できたのはよい経験でした。しかし、米国子会社のオペレーションは限定的で3年くらいすると新たな学びが少なくなり、米国公認会計士の資格も取れましたので、1997年9月にアメリカのロサンジェルスから帰国することにしました。米国では主に税務を担当していましたので、日本に戻る際に移転価格税制などの仕事をしようと考えErnst Youngの税務担当法人に入社しました。

「新日本アーンストアンドヤングでの取引支援業務」
私が帰国したころ、日本の金融機関の不良債権問題が盛んに報道されるようになりました。帰国3か月後である1997年11月に、三洋証券が会社更生法を適用申請、北海道拓殖銀行が解散、山一証券の自主廃業決定と立て続けに日本を代表する金融機関の経営破綻が続き、日経平均が1万5千円を割り込み、金融市場においてジャパン・プレミアムが発生する事態となりました。不良債権処理を最優先で進める必要性がありましたが、当時の金融機関は、不良債権の処理に不慣れな状態でした。最も迅速な処理は、不良債権を第三者に売却する方法ですが、邦銀は貸付債権を売却した経験がない一方、不良債権の購入者である外資系の投資家も日本の実務慣行に不慣れでした。不良債権の売買取引を成立させるために、米国から帰国直後で、それ程決まった仕事がない私が、不良債権処理チームに配属され、寝る暇もないほど多忙な日々を送ることになりました。金融機関の不良債権の処理はその後10年くらいに亘りErnst Youngで大きなビジネスになりましたが、その実務の端緒から関りが持てたのは幸運であったと思います。
不良債権の処理ビジネスで事務所に多大な貢献があったことが認められ、私は30代の後半で取締役パートナーに昇進し、不良債権のみならず、企業再生ビジネスやM&A取引のアドバイザーも務めるようになりました。Ernst Youngでの仕事は2000年前後に大きな取引のアドバイザリー業務を担当パートナーとして取り仕切っていた頃が一番面白かったと思います。しかし、Ernst Youngジャパン内で取引支援業務を再編することになり、アメリカでエンロン事件が発生した後は、非監査業務の提供が難しくなるということや、トップの外人の意向で、日本のマーケットを無視した事業戦略の実行やサービス提供方針の結果として、取締役パートナーとしての仕事の過半は業務開拓とスタッフの管理ということとなりました。このままではサービス提供能力が無くなってしまうという危機感から2007年にErnst Youngを辞めることにしました。

「現在」
2007年にErnst Youngを辞めて、現在も代表をしているビバルコ・ジャパン株式会社にて、取引支援業務を始めました。はじめた当初クライアントは殆どなく、大手事務所の看板がないと簡単ではないと感じましたが、頼まれた仕事は基本的に断らないというポリシーで取り組んでいたところ、少しずつビジネスが上手くいくようになったと思います。大手の看板で仕事をして欲しいというクライアントもあれば、名前はなくても内容が良くて良心的な値段で仕事をして欲しいというクライアントも数多くいますので、後者に焦点をあてれば良い訳です。
そのような経緯で私がM&Aに関わるようになって20年以上が経ちますが、M&Aの取引件数は年を追うごとに増加しています。自分の勤めている会社がM&Aをしたり、されたりという話もよく聞きます。また社外取締役をしている会社でも、取締役会でM&A案件の議案は良く見るところです。M&Aは経営の手段として特別なものでは無くなったと感じます。
私は、会計監査業務を振り出しに、紆余曲折を経て、現在主に行っているM&A関連のビジネスに携わることになりました。公認会計士というと監査業務が中心ですが、終わった取引を吟味してもビジネスとして面白くないという思いから出発し、M&A等の取引を作る立場へと移ることができ、現在は満足のいく仕事が提供できていると感じています。

「大学卒業そして会計監査法人での業務」
大学卒業後、ビジネスで成功できるようになりたいと思い、公認会計士の二次試験に合格し、日本の外資系監査事務所(Ernst Young)に入社しました。米国の先進的な監査実務を経験したかったのと、国際的な活躍ができるビジネスマンを目指した訳です。
公認会計士としては、監査業務が仕事の本流ですが、実際に監査業務を担当する中で、終わった取引の会計処理をあれこれ議論しても、正直それ程面白い仕事とは思えませんでした。そういった訳で、チャンスがあれば、海外に行くような機会がないかと思っていたのですが、たまたま同じ出身大学で同じゼミのOBが米国のロサンジェルスで公認会計士事務所を開業していることを知り、連絡をしてみたところ、こちらで働いてみなさいとのことで、1994年3月にアメリカの会計税務実務を経験するため渡米しました。

「アメリカでの仕事」
その事務所は日本企業の米国子会社がメインのクライアントで、個人の申告書及び中堅規模の米国法人の監査あるいは税務申告書の作成などを行い、幅広く米国の実務を直接担当できたのはよい経験でした。しかし、米国子会社のオペレーションは限定的で3年くらいすると新たな学びが少なくなり、米国公認会計士の資格も取れましたので、1997年9月にアメリカのロサンジェルスから帰国することにしました。米国では主に税務を担当していましたので、日本に戻る際に移転価格税制などの仕事をしようと考えErnst Youngの税務担当法人に入社しました。

「新日本アーンストアンドヤングでの取引支援業務」
私が帰国したころ、日本の金融機関の不良債権問題が盛んに報道されるようになりました。帰国3か月後である1997年11月に、三洋証券が会社更生法を適用申請、北海道拓殖銀行が解散、山一証券の自主廃業決定と立て続けに日本を代表する金融機関の経営破綻が続き、日経平均が1万5千円を割り込み、金融市場においてジャパン・プレミアムが発生する事態となりました。不良債権処理を最優先で進める必要性がありましたが、当時の金融機関は、不良債権の処理に不慣れな状態でした。最も迅速な処理は、不良債権を第三者に売却する方法ですが、邦銀は貸付債権を売却した経験がない一方、不良債権の購入者である外資系の投資家も日本の実務慣行に不慣れでした。不良債権の売買取引を成立させるために、米国から帰国直後で、それ程決まった仕事がない私が、不良債権処理チームに配属され、寝る暇もないほど多忙な日々を送ることになりました。金融機関の不良債権の処理はその後10年くらいに亘りErnst Youngで大きなビジネスになりましたが、その実務の端緒から関りが持てたのは幸運であったと思います。
不良債権の処理ビジネスで事務所に多大な貢献があったことが認められ、私は30代の後半で取締役パートナーに昇進し、不良債権のみならず、企業再生ビジネスやM&A取引のアドバイザーも務めるようになりました。Ernst Youngでの仕事は2000年前後に大きな取引のアドバイザリー業務を担当パートナーとして取り仕切っていた頃が一番面白かったと思います。しかし、Ernst Youngジャパン内で取引支援業務を再編することになり、アメリカでエンロン事件が発生した後は、非監査業務の提供が難しくなるということや、トップの外人の意向で、日本のマーケットを無視した事業戦略の実行やサービス提供方針の結果として、取締役パートナーとしての仕事の過半は業務開拓とスタッフの管理ということとなりました。このままではサービス提供能力が無くなってしまうという危機感から2007年にErnst Youngを辞めることにしました。

「現在」
2007年にErnst Youngを辞めて、現在も代表をしているビバルコ・ジャパン株式会社にて、取引支援業務を始めました。はじめた当初クライアントは殆どなく、大手事務所の看板がないと簡単ではないと感じましたが、頼まれた仕事は基本的に断らないというポリシーで取り組んでいたところ、少しずつビジネスが上手くいくようになったと思います。大手の看板で仕事をして欲しいというクライアントもあれば、名前はなくても内容が良くて良心的な値段で仕事をして欲しいというクライアントも数多くいますので、後者に焦点をあてれば良い訳です。
そのような経緯で私がM&Aに関わるようになって20年以上が経ちますが、M&Aの取引件数は年を追うごとに増加しています。自分の勤めている会社がM&Aをしたり、されたりという話もよく聞きます。また社外取締役をしている会社でも、取締役会でM&A案件の議案は良く見るところです。M&Aは経営の手段として特別なものでは無くなったと感じます。
私は、会計監査業務を振り出しに、紆余曲折を経て、現在主に行っているM&A関連のビジネスに携わることになりました。公認会計士というと監査業務が中心ですが、終わった取引を吟味してもビジネスとして面白くないという思いから出発し、M&A等の取引を作る立場へと移ることができ、現在は満足のいく仕事が提供できていると感じています。

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