諏訪園 貞明 教授 Sadaaki Suwazono

日銀、公取委、経済産業省、
内閣府等で35年余、経済分
析、法改正、条約交渉等に
従事。こうした経験などを
講義やゼミを通じて、学生
の皆さんと共有できるよう
努めます。

昭和61年慶応義塾大学経済学部卒業。平成5年米国Tufts大Fletcher法律外交大学院修了。昭和61年日本銀行入行、同行調査統計局,国際局,発券局等において,景気・国際収支予測,国際機関との連携等に係る作業に従事。平成7年以降、公正取引委員会,経済産業省,内閣府・内閣官房において,所管する法令等の施行に加え,それらの改正法案の企画・立案,平成17年独占禁止法改正における課徴金減免制度導入等に係る企画立案作業、経済産業省所管の特定商取引法の35年振り抜本改正、老人ホームの90日ルール法定化に係る老人福祉法改正についての内閣府消費者委員会の建議策定、学生の就活後ろ倒し、社会人の学び直しのための教育訓練給付金拡充等の作業に従事。また、日EU経済連携協定,TPP,RCEP等の二国間・多国間経済連携協定等の条文交渉に携わったほか,G7競争当局間での「競争とデジタル経済」に関する共通理解の策定等にあたった。
さらに,「平成17年独占禁止法改正」等の単著、共著、論文等多数。

教員の志史

小さいころから、体が弱かった。生後半年でアトピー性皮膚炎を発症、小2から小児喘息、更には、アレルギー性鼻炎を発症。他方、当時は、「巨人の星」や「ドカベン」に多くの少年が魅せられていた時代でもあり、都立青山高校では野球部に入部した。都立高校でもあり、それほど練習がきつかったわけでもないだろうが、小児ぜんそくが悪化して、高1の冬から何度も入院生活を味わった。高校の進級会議の常連ともなった。それでも少年のころから自分の職業について夢はあった。小学校5年の冬、日本中が、世界中が「オイルショック」で足がすくみ、母親も灯油等の買い出しに追われた。その際、どの新聞だったか、「経済の医者が必要だ」という見出しを掲げていた記憶がある。しかし、毎年、高校の進級会議にかけられているようでは、学業もやっとで、一浪してようやく、補欠で大学に拾ってもらった。

しかし、ここで、理論・計量経済学会(現・(一社)日本経済学会)会長も務めた福岡正夫教授のマクロ経済学・ミクロ経済学のゼミの末席に連なることができた。先生の薫陶を受けて眼前がすっと開けた記憶がある。ただし、肝心の経済学等については、どうもぴんと来なかった。「これを研究して、経済の医者になれるだろうか」などと、今思えば大変生意気だが、そうした漠たる疑問があった。卒業後、日銀調査統計局や同国際局等で長期時系列データの分析を基に、局長等へ説明する業務をしていた時だ。説明を受ける方々も感じられていたであろうと思うが、説明している本人も、「本当はどうだろう。」と思っていた。また、「申し訳ないな。」と感じていた。ようやく、目の前が開けてきた気がしたのは、20代の終わり頃、米国で国際金融論等の演習で厳しい指導を受けていた時だった気がする。米連邦議会で参考人として証言を求められたこともある気鋭の先生等の御蔭で、何とか方向性が見えてきた気がした。当時、ゲーム理論や、情報の経済学が華を開き始め、現実の経済に即した新たな分析枠組みに知恵を絞る先生も増えてきた気がする。修士論文も迷わず、ゲーム理論のあるモデルなども踏まえて、対東南アジア金融と、対ラ米金融のデータ等を分析した。すると、「直接金融と間接金融の実態は、MM定理と異なっている」旨の分析結果等を修士論文としてまとめることができた。それで、口頭試問も下手くそな英語で何とか乗り切ることができた。

 

帰国して、日銀での業務は、バブル崩壊後も様々な業務量が再び増えるであろうことを統計的に予測するなどにより、予算を獲得することなどであった。少しへこんでいた。ただ、2年ちょっとで公取委へ出向した。そこで、持株会社解禁法案の策定作業等に携わり、また、大量のデータを基に産業横断的に行った分析を目にする等、米国で学んだことも生きそうな仕事と出会った。約束の2年が来たが、「『彼が出向先から戻らないのなら、今後、人は出さない』と出向元が言うても、それでもかまわないのんと違うか」との故・根來泰周委員長の涙が出るような御判断にも背中を押してもらった。その後、四半世紀余り、公取委に奉職した。この間、公取委経済取引局企画室長、経産省消費経済対策課長、東北大教授、内閣府・内閣官房参事官、公取委国際担当官房審議官等と様々な職を経験する機会を得た。大手術であるかはともかく、難手術を指揮する機会にも少なからず恵まれた気がする。どの術後も経過は安定していたように思うが、それは、偏に、良き上司、同僚、部下に恵まれ、また、消費者団体、企業・経営者団体、弁護士、大学の先生、報道の方々の御助力によるものだと思う。正直なところ、「経済の医者」一人にできることは極めて限られている。

 

他方、小児喘息は、社会人になってもなかなか治らなかった。スキーバス・ツアーの帰りに、現在は妻となった女性に連れられバスから降りて、病院に駆け込むこともあった。ある公共放送の番組によれば、こうした病気は、母親からのみ遺伝するらしく、御蔭さまで子供たちはそうした病気とは無縁であった。ただ、父親が苦しんでいるのを見て、「パパはどうして苦しいのに、お仕事に行くの」と不思議そうな顔をしているのを見て、家ではしばし疎外感も感じた。けれど、妻の献身的な薬餌療法の御蔭もあったろうが、やはり、薬の進歩だろう、40代までには徐々に治り、2012年の「板橋マラソン大会」では、42.195㎞を3時間台で走破することができた。唯一、アトピー性皮膚炎には、ずっと苦しまされてきた。コロナが蔓延し始めた頃だったろうか。これもあるTV番組で、「納豆と乳酸菌を一緒に摂取すると、免疫力がアップし治癒する」というので、以来、毎日そうしたメニューを取ってきた。その御蔭か、暫くして五十数年間の宿痾がほぼ寛解した。

当時、受診していた皮膚科の医者もこれを診て軟膏等の処方量を格段に減らしたが、納豆と乳酸菌の話は、「スルー」された感があり、やや不満が残った。その時である。縁あって、本学MOTの教育課程連携協議会の委員となり、2021年秋のグラデュエーション・ペーパーの中間報告会に参加した。そこで、製薬会社に勤務する2年生の学生が「患者の声を製薬会社が直接聞いて、育薬、創薬につなげる」ビジネス・モデルの発表をするのを聞いた。また、そのほかの学生も、次から次へと様々な分析を基に斬新なビジネス・モデルを開陳していくのを聴き、わくわく感を抑えることができなかった。「この大学院で働きたい」と心に決めた瞬間でもあった。

このMOT就職直前に,「仮に、人生の価値がその人の経験した感動の総和で決まるのだとしたら、この大学院が、学生の人生の価値を大きく、大きく押し上げてくれるのは間違いないだろう。及ばずながら、今春から、全力でそれを応援することをここに誓うものである」と本欄に記載した。ただ、就職後、しばらくして分かったことは、学生の方々の真摯な姿勢や新たな提案などによって、「応援されているのは私自身だ」と痛感しているのも事実だ。それは、また、一生の宝物だろう。