専任教員

関 孝則 教授

グローバル/ベンチャーIT企業で新規事業

[経歴]
昭和60年長岡技術科学大学大学院工学研究科修士課程電子機器工学専攻修了、日本アイ・ビー・エム入社。知的財産評価、大型計算機開発、新規技術コンサルティング、新規事業開発担当などを経て、平成13年に技術理事に就任。平成12年米国IBM、技術ストラテジー部門勤務。平成22年セールスフォース・ドットコム、常務執行役員、先進技術ソリューション本部長などを務める。この間、電気通信大学、長岡技術科学大学の非常勤講師、産業技術総合研究所幹事のグリッド協議会副会長、ものこと双発学会理事など就任。平成29年より現職。著書に「REXX自由自在」(サイエンス社)や、ブログで「SE関のノーツ/ドミノ徒然草」(IBM developerWorks)、「クラウド的な世界へ」(IT Media、オルタナティブブログ)など多数。

[担当授業科目]
・ グローバル戦略・組織論
・ 研究開発組織のマネジメント
・ ITの戦略的利用
・ ソフトウエアとインターネットビジネス開発
・ サービス戦略とイノベーション
・ 実践リーダーシップセミナー 1-1〜3-2

関 孝則先生の活動一覧

志史 ~私の歴志~
─ 好奇心の赴くままで渡ってきた不連続 ─

生まれは新潟県村上市。人口もほとんど変化のない、新幹線も通らない新潟最北の遠くて小さな城下町。偏差値という言葉も知らず、競争もあまりない。そんな環境で問題も起こさず、自分では大人しく真面目な子供として育ったと思う。ただ、好奇心は旺盛で、小学生から、望遠鏡で星をみたり、アポロに刺激され「宇宙飛行士になりたい」と考えたり、背伸びをしてアマチュア無線をやってみたり。そんな好奇心は自分を遠くまで連れていってくれることになる。
家を出たくて、15歳で仙台にある仙台電波高専(現在は仙台高専)で寮暮らし。本来は無線通信士を養成する学校だが、当時、導入された大型コンピュータを使って、楽しそうにしている東北大学から来た先生達に刺激され、自分もコンピュータ漬けになる。大学は出ておこうと試験がなく編入できる長岡技術科学大学に行き、そこではシンプルな公式から世界を説明してしまう物理学に魅せられ、応用物理の研究室に入ってしまう。ただ、コンピュータへの好奇心が勝り日本IBMへソフトウェア・エンジニアとして就職する。

ところが偶然に配属された部門は「仕事の内容は決して他の社員にも言わないように」と、著作権/特許侵害を調査する米国本社直轄の小さな部門だった。科学や技術の好奇心に、経営や市場という視点が複雑な形で混ざり込んできた。詳細は記せないが、技術戦略や知財戦略を、理屈より肌で感じ取れる環境の中で、それを実行するための組織づくり、専門家チーム、経営者の意思決定など、グローバル大企業の動きを、日々、体感できる仕事だったと思う。
80年代のIBMでは、失われたアトランティスのように、大型コンピュータのインターネットのような原型を社内に実現していた(そして後に廃止される)。30万人超の社員のうち10万人の社員が見ていたと言われ、今のインターネットのように、自由に社員が繋がり、対話、共有、協業をしていた。仕事で詰まって技術的な質問をあげると、見知らぬ誰かが翌朝にはアドバイスをくれた。自作のツールをアップすると、知らない人たちが賞賛してくれ、プロジェクトにも使ってくれていた。驚いたことは、そのネットワークと基盤を正式に集中管理している部門がなかったことだ。自分を含め多くの社員が、仕事に関連づけながらもボランティアで、開発や運用をし、ルールを作り、フラットな関係でマネジメントされていた。階層のないネットワークは、今までにない進化する組織をつくるのでは。そんな感覚と興味をもった。その好奇心は行動の動機付けに変わっていく。

IBMが後に買収する情報共有のソフトウェアを、組織を飛び出し、子会社でサービスビジネスを立ち上げた。関連してブログをやると、沢山の人が集まってきた。マーケティングが私のやり方に気づき応援してくれ、グローバルのIBMで同じ分野の人たちがつながっていった。いろんなものが加速度を増し、私をニューヨークの技術戦略部門に連れて行ってくれた。そこでは、まさに革命的なオープンソース戦略が練りこまれていた。それを支える人たちは、ネットワークでコミュニティを作り、経営を揺らしていた。技術が人と組織をエンパワーし、そして会社の経営を変えていく。私にはそんな風に見えた。英語は満足いくレベルではなかったし、本社勤めは辛いことの連続だったが、技術と経営をグローバル規模で舵を切る様子を間近で見た経験は、今の技術経営につながる貴重なものだった。

技術、ビジネス、組織、コミュニティ。これらを総合して見ることは自分の好奇心を満たしてくれた。その経験から、新しい技術を使ったビジネスの話があると鼻を効かせて潜り込んだり、チームを作ったり、畳んだりと、グローバル大企業の中でも楽しませてもらった。そして新しい大きな波に見えたクラウド・コンピューティングを知れば知るほど自分でやりたくなり、「どんな仕事でもいいので」とSalesforce.comに募集がないポジションで転職することになる。

Salesforce.comではビジネスへの取り組みが、スタートアップ精神を持ち続け、かつ会社内がSNSでグローバルに透明かつフラットになっていることで、混沌がありつつも爆速で動いていた。顧客との関係性を変えそうな、新しい技術を軸にビジネス開発をさせてもらった。経営陣はデジタル技術が顧客と企業の関係性を根本的に変えると信じ、延長線上のビジネスはITベンダーではなく、デジタル変革の仲介者になることだった。技術が人、組織、市場を変えるというのはまさに自分の興味でもあるため、積極的に自分も関わっていった。が、日本の市場には早すぎたのか、敗戦の繰り返しだった。ある変化を求める大企業の案件で、信頼していたお客様に言われる。「本当にイノベーティブな提案だと思いました。ただ、役員はイノベーションよりローリスクを取れと」。
私の好奇心はこの言葉などから、人に影響を与えることに向いていく。50代も後半になり、自分がキャリアで最後にやるべきことは、多くの人に影響を与えることで、企業を変えていくこと、ではないかと。その頃、縁があって、理科大ビジネススクールの教員の話をいただく。教員というのはある意味、現役を離れることで、やったこともない仕事。好奇心と不安とのバランスは最後に好奇心が勝った。
振り返ってみれば、エンジニアとして様々なテクノロジーの不連続を経験し、仕事も、マネジメント、本社スタッフ、ビジネス開発、マーケティングなどと多様に役割を変えてきた。普通の人はあまり渡らない不連続なものを知らず知らずのうちに乗り越えてきたと思う。ハードワークはしてきたが、自分としては好奇心が勝っただけだと思う。
人に影響を与えるというのはそう簡単ではない。4月から授業を始めているが、試行錯誤の連続だ。ある学生が声をかけてくれた。「『青年は教えられることより刺激されることを欲するものである』とゲーテは言ってますよ」と。学生と教員、階層のないネットワークで、刺激しあう場をつくることが自分の役割だと改めて気づかされた。

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