専任教員

荻野 誠 教授

大手電機で30年、経営×知財を考える国際技術交渉のプロ

[経歴]
早稲田大学政治経済学部政治学科及び東京都立大学法学部法律学科卒業。筑波大学大学院経営・政策科学研究科修了(企業法学専攻)。オックスフォード大学セント・ピータース校にて同大知的財産研究所初代所長Peter Hayward氏に師事。ハーバード・ビジネススクール Program for Global Leadership 修了。(株)日立製作所にて約30年にわたり、海外企業との技術提携、特許ライセンス、特許侵害訴訟の和解交渉等の業務ならびに知的財産戦略の立案、グループ会社の再編等の業務に従事。平成22年(株)日立国際電気 知的財産権本部本部長。平成24年4月より本学イノベーション研究科教授。平成30年2月日本ライセンス協会会長に就任予定。

[担当授業科目]
・ ビジネスで成功するための戦略
・ グローバルビジネス交渉力
・ 実践リーダーシップセミナー 1-1〜3-2

志史 ~私の歴志~
─ 20代勉強、30代実力、40代信用、そして50代育成 ─

【世界に目を向けさせたもらった学校時代】
 生まれも育ちも東京の板橋区。23区内とは言え、子供の頃の昭和30年代、練馬区に接する板橋区の北辺は田園風景そのものだった。元農家の地主の屋敷森には欅の大木がそびえ、住宅地には麦畑や野菜畑が点在し、川沿いには牛を飼っている農場まであった。夏はセミ採りと石神井川でのザリガニ釣り、冬は原っぱでの凧上げといった子供時代を過ごした。
 ただ父の意向で、通った小学校は北区のイタリア系ミッションだった。バス通学した学校は、高台の広大な敷地に幼稚園から短大、そして養護施設に女子修道院も擁する大きな学園で、小学校までの一部を除くと女子ばかりの「女の園」だった。園内では、丸々としたイタリア人シスターが闊歩し、聖母像の輿を担いで練り歩く五月のマリア祭など、欧風のキリスト教行事が四季折々に行われて、塀の外の「三丁目の夕日」的世界とは全く違う異文化空間を経験した。進んだ中学も目黒にあった系列の男子ミッションで、見た目は普通の学校だった(但し派手な内装の聖堂は例外で、後に松田聖子が結婚式を挙げて有名になった)が、華僑の息子や大使館関係のインド人、ロシア人、ミャンマー人の息子などの生徒がいて、世界を身近に感じる環境だった。

 高校(都立小石川)で初めて普通の公立共学校へ通った。自由な校風の下、生徒はすこぶる優秀で、同じクラスに「さらば財務省!」の高橋洋一(現嘉悦大学教授)がいた。数学がべらぼうに出来、天才とはこういうものかと驚いた。独仏語の自由選択があり、子供の頃から指導を受けてきたドイツ人神父の影響もあってドイツ語を選んだ。Gereon Goldmann神父は、若いころは反ナチ運動の青年リーダーでヒットラー暗殺計画にも関係し、4回も死刑判決を受けながらも毎回間一髪のところで生き延びてきたという壮絶な経験の持ち主だった。私にとって第二の父であり、宗教・精神面のみならず生活一般についてもドイツ流に厳しく指導された。
 大学は早稲田の政治に進んだが、ドイツ語で受験したため、第一外国語と専門外国書研究がドイツ語だった。1年生から難解なニューレフトの論文をドイツ語で読まされ、大学4年間は朝から晩までドイツ語と格闘していたこと以外はあまり覚えていない。ところで、早稲田の前、学芸大の初等教育過程に3日間だけ在籍したことがある。42人のクラスで男子は3人だけ。私が3日で辞め、もう一人も途中で消え、最終的に卒業したのは一人だけだった。その彼も教員にはならず日活の助監督になった。後の金子修介監督である。

【人を育てる上司に恵まれた日立時代】
 1979年に入社した日立では本社の国際事業本部に配属になった。国際法務を担当していたが、3年ほどして人生の方向を決める2つの事件が起こった。一つは、上司の部長(毛利格郎氏)が部下から社費留学者を出したいので志願せよと言い出したこと。もう一つは日立とIBMの間で知的財産がらみの「IBM産業スパイ事件」が起ったことだった。1984年の春、私も事件がきっかけで作られた部署に異動した。私と知財の長い関わりの始まりだった。異動初日、上司の課長(西川晃一郎氏、後の執行役専務)から「私は皆さんの身元を完全に保証できます」と言われた。課員に対しCIAが徹底した事前クリアランスを行ったというのが理由だった。
 東京都立大学(現首都大学東京)の法学部夜学に事前準備として2年間通った後、1984年夏から1年間、英国Oxford大学St. Peter's Collegeに社費留学した。Oxfordの教育の中心はTutorialと呼ばれる個人指導で、私は、後にOxford知財研究所の初代所長となるPeter Hayward先生に指導いただいた。Tutorial は、学生が事前課題に従い書いたエッセイを先生が厳しい質問で徹底的に突っ込んでいくという形で進む。寒い冬の最中自転車で凍えながら先生の研究室へ通ったが、帰りは緊張と興奮で身体が火照りマフラーも要らないほどだった。因みに、皇太子と留学の時期が重なり、留学生イベントで何度かご一緒する機会もあった。
 帰国後、海外企業との技術交渉を担当する部署へ更に異動になった。後に特許部と合併して知的所有権本部となり、私が会社生活のほとんどを過ごした部署である。部長は部下への厳しい指導で有名な松田実氏で、同氏や国際事業部長だった三木和信氏に同行して何度も海外出張し、卓越したネゴシエーターの交渉現場からOJTで多くを学ばせてもらった。

 お二人とも強烈な個性の持ち主でハード・ネゴシエーターだったが、同時に交渉相手との人と人の関係を非常に大切にされた。三木氏は、スパイ事件和解の交渉相手だったWally Doud氏の自宅を同氏がIBMを退職された後も定期的に訪問された。私も何度もご一緒にメインやフロリダのお宅にお伺いした。GEのJack Welch氏はテレビ部長時代に三木氏の交渉相手だったが、世界的に有名なCEOになった後も、毎年元旦の零時、三木氏の自宅に新年の挨拶の電話を必ずかけてこられたという。一流のビジネスマンとしてのあるべき姿を見せてもらった。
 松田流のOJTは、海外出張に若手を一人同行させ交渉の下調べから現場のアレンジなど全てをさせるものだった。200%を要求する完璧主義者で、私も準備不足や不手際によくカミナリを落とされた。松田マジックとも言うべき華麗な交渉術と戦略性を間近で学べたのは大きな財産だったし、その背後に徹底した準備があることを身体で学ばせてもらった。
 日立の知財部門は殺人的に忙しかったが、勉強になるならオフジェーティについても寛容だった。私が筑波大学の社会人大学院に通いたいと言った時も快く許してくれた。また20年以上直属の上司だった平山裕之氏(知的財産権本部長)はHarvard Business Schoolの3ヶ月コースに派遣してくれた。平山氏はCornell大学のMBAに社費留学され、知財部門にも経営教育が必要との考えの方だった。おかげでMichael PorterやEzra Vogelといった有名教授の生の授業を受ける貴重な体験を得た。私が今理科大で行っている双方向の授業スタイルもこの時学んだものである。

【50代「後進の育成」】
 前述の三木氏はよく「20代勉強、30代実力、40代信用」と言われていた。日々是勉強も真理だが、すべてのことには時がある。30代後半以降自ら交渉を行う立場になり、数多くの難しい国際交渉に従事したが、そこでの成果は30代前半までに諸先輩から受けた指導・育成に負うところが大きい。日立には優秀な人が多いが、単に個人として優秀なだけでなく、自分の時間と熱意の大きな部分を後進の育成に使い、育てられた優秀な人材がまた若い人材を育成していくところに、組織としての日立の強さがあったと思う。三木氏は50代以降については語らなかったが、私は、50代以降は「後進の育成」だと考える。2012年から知的財産戦略専攻の教授となり、理科大で後進の育成に専念する機会を与えられたことに感謝している。

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