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教員プロファイル

井上 悟志 教授

製造業からエネルギー、農業まで、産業政策・技術政策実践の現場からの深い気づきを伝授

Profile

[経歴]
1991年東京大学工学部航空学科卒(宇宙工学コース)。1993年東京大学大学院工学系研究科修士課程修了。修士(工学)。同年通商産業省(現経済産業省)入省。産業技術政策局基準認証政策課工業標準調査室長、製造産業局自動車課電池・次世代技術・ITS推進室長、資源エネルギー庁電力・ガス事業部電力基盤整備課電力需給・流通政策室長、製造産業局素材産業課革新素材室長等を歴任。2021年より現職。
民間企業とのコミュニケーションを通じた課題の抽出、課題解決に向けた政策の企画・立案、ステークホルダーをまとめた政策の実施等の手法を実務的に体得。特に、理系のバックグラウンドを強みとして、イノベーション創出のための環境整備に向けた政策の企画・立案、技術開発プログラムのマネジメント等に精通。また、内閣官房、日本貿易振興機構ニューヨークセンター、農林水産省、国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)等への出向から、異なる文化を持つ組織における政策の企画・立案・実施の比較分析及び融合的政策の企画・立案・実施も経験。著書に、「経済政策レビュー12『競争に勝つ大学』」(共著・東洋経済新報社)。

[これまでの主な担当科目]
・科学技術・産業政策
・技術ものことづくり
・実践CXO・起業家ケーススタディ
・プロジェクトエクササイズ
・プロジェクト

Message

(嘱託教授)製造業からエネルギー、農業まで、産業政策・技術政策実践の現場からの深い気づきを伝授

教員の志史

●「志」は常に共に
私の故郷は、群馬県の中央部に位置する渋川市というところです。合併する前は今よりもずっと小さい市で、頑張ればどんなことでも一番になれるかもしれない、子供心には希望を抱きやすいそんなところでした。子供なりにいろいろ頑張りましたが、陸上と水泳でどうしても勝てない男の子が隣の小学校にいました。小学6年生の時に県大会へ出場した際、知り合いもいないのでふたりで柔軟体操をしたのですが、その子の身体を押した時に筋肉のあまりの柔らかさに驚愕し、「これはかなうはずがない」と観念して運動で身を立てることを諦めました。(ちなみにこの男の子、金子宗弘さんはその後も競技を極め、十種競技でアジアチャンピオンにもなりました)
そんな小中学校時代でしたが、井の中の蛙であることは自覚していました。もっと大きな世界を見てみたい、すごいヤツというのに会ってみたい、という想いが募り、渋川から前橋へそして東京へと流れ行くこととなりました。(結局、すごいヤツに会うことはありませんでしたが)
なお、「志」は私の名前の一字です。最近はそこそこ見かけるようになりましたが、少し前までは二文字で「悟志」と読ませるのはあまり一般的ではなかったようで、よく「志」を忘れられてしまいました。「『悟る』に『志す』で『悟志』です。『志』を忘れないでください」と説明したものですが、もしかすると生まれた時からこの文章を書くことを運命づけられていたのかもしれません。

●なぜ宇宙だったのか
東京大学では、2年生まで教養課程で学び、何を専門分野とするかは3年時に決めることになっています。理系の学生として数学や物理学にも興味はあったのですが、いくつかの奨学金により学生生活がたいへん助かっていたこともあり、どうせやるなら社会に直接還元できることをやろうと考え工学部を選びました。学科の選択にあたっては、人間が容易に近づけないフロンティアに興味があり、深海開発か宇宙開発かでかなり迷いました。心を決めた瞬間のことはいまでもよく覚えています。快晴の日、青空に浮かぶ月を見ながら、ああ、地球に負荷をかけずに開発するなら宇宙だな、宇宙にしよう、と。宇宙飛行士に憧れたわけでも、天体観測が好きだったわけでもなかったのでした。なお、宇宙空間には流体がないのでニュートン方程式だけで運動が説明できるため理解が簡単だった、というのもあります。
その後、大規模な宇宙開発プロジェクトの現実を目の当たりにするにつけ、これは資金を配る側へ回らなければいかん、と思い、経済産業省(当時は通商産業省)の門を叩くことになります。

●令和の梁山泊
経済産業省を中心に、30年近く行政官として仕事をしてきました。かつて、不夜城と呼ばれた経済産業省は、勤務終了後は梁山泊のようでした。冷房も暖房も効かない中、課長を中心にひとりふたりとテーブルに集まる。しばらく議論して、課長が退庁した後はますますヒートアップする。途中からは廊下をたまたま通りかかった誰だか分からない人も加わって、終電になるまで、時には始発まで、日本とは何か、自分が総理大臣だったら日本をどうするか、という激論を飽きもせず毎夜毎夜戦わせていました。若い頃は、また同じ話だよ、と多少辟易としながらも付き合っていましたが、ものの見方や考え方はこの時の経験が血肉となっていることに随分後になってから気づきました。また、多少青臭い議論を正面から受け止めてくれるサロンのような環境は世の中にあまり存在しないのだということも、しばらく気づきませんでした。大変ではありましたが、贅沢な時代でした。
翻って現在、こうしたやり方は非効率だとして敬遠されがちです。さまざまなメソッドが開発され導入されて、実績のあるフレームワークの中で足場の悪さを感じることのなくスマートに議論を進めることができます。しかし、馴化された環境で野生に対抗できるでしょうか。
当時の談論風発の雰囲気を令和風にアレンジして届けたいと思います。

●標なき未来へ
一例を挙げます。終身雇用、年功序列といった特徴を持つ日本型雇用の弊害は夙に指摘されてきました。起業はそれに対する強力な代案としての魅力に満ちており、現に人気を博しています。しかし、起業というシステムそのものにはオリジナリティはあるでしょうか。日本の独創性という視点から見れば、終身雇用・年功序列というシステムのオリジナリティもなかなかのものではないでしょうか。
われわれは、正解なき時代を生きています。いままでにないことをどれだけ考え出せるか、みなさんの未来はここにかかっていると考えます。活字になっているものは、すでに古い。活字情報を押さえながら、活字にないものを創る。そうした気概を持って臨みたいと思います。

●「志」は常に共に
私の故郷は、群馬県の中央部に位置する渋川市というところです。合併する前は今よりもずっと小さい市で、頑張ればどんなことでも一番になれるかもしれない、子供心には希望を抱きやすいそんなところでした。子供なりにいろいろ頑張りましたが、陸上と水泳でどうしても勝てない男の子が隣の小学校にいました。小学6年生の時に県大会へ出場した際、知り合いもいないのでふたりで柔軟体操をしたのですが、その子の身体を押した時に筋肉のあまりの柔らかさに驚愕し、「これはかなうはずがない」と観念して運動で身を立てることを諦めました。(ちなみにこの男の子、金子宗弘さんはその後も競技を極め、十種競技でアジアチャンピオンにもなりました)
そんな小中学校時代でしたが、井の中の蛙であることは自覚していました。もっと大きな世界を見てみたい、すごいヤツというのに会ってみたい、という想いが募り、渋川から前橋へそして東京へと流れ行くこととなりました。(結局、すごいヤツに会うことはありませんでしたが)
なお、「志」は私の名前の一字です。最近はそこそこ見かけるようになりましたが、少し前までは二文字で「悟志」と読ませるのはあまり一般的ではなかったようで、よく「志」を忘れられてしまいました。「『悟る』に『志す』で『悟志』です。『志』を忘れないでください」と説明したものですが、もしかすると生まれた時からこの文章を書くことを運命づけられていたのかもしれません。

●なぜ宇宙だったのか
東京大学では、2年生まで教養課程で学び、何を専門分野とするかは3年時に決めることになっています。理系の学生として数学や物理学にも興味はあったのですが、いくつかの奨学金により学生生活がたいへん助かっていたこともあり、どうせやるなら社会に直接還元できることをやろうと考え工学部を選びました。学科の選択にあたっては、人間が容易に近づけないフロンティアに興味があり、深海開発か宇宙開発かでかなり迷いました。心を決めた瞬間のことはいまでもよく覚えています。快晴の日、青空に浮かぶ月を見ながら、ああ、地球に負荷をかけずに開発するなら宇宙だな、宇宙にしよう、と。宇宙飛行士に憧れたわけでも、天体観測が好きだったわけでもなかったのでした。なお、宇宙空間には流体がないのでニュートン方程式だけで運動が説明できるため理解が簡単だった、というのもあります。
その後、大規模な宇宙開発プロジェクトの現実を目の当たりにするにつけ、これは資金を配る側へ回らなければいかん、と思い、経済産業省(当時は通商産業省)の門を叩くことになります。

●令和の梁山泊
経済産業省を中心に、30年近く行政官として仕事をしてきました。かつて、不夜城と呼ばれた経済産業省は、勤務終了後は梁山泊のようでした。冷房も暖房も効かない中、課長を中心にひとりふたりとテーブルに集まる。しばらく議論して、課長が退庁した後はますますヒートアップする。途中からは廊下をたまたま通りかかった誰だか分からない人も加わって、終電になるまで、時には始発まで、日本とは何か、自分が総理大臣だったら日本をどうするか、という激論を飽きもせず毎夜毎夜戦わせていました。若い頃は、また同じ話だよ、と多少辟易としながらも付き合っていましたが、ものの見方や考え方はこの時の経験が血肉となっていることに随分後になってから気づきました。また、多少青臭い議論を正面から受け止めてくれるサロンのような環境は世の中にあまり存在しないのだということも、しばらく気づきませんでした。大変ではありましたが、贅沢な時代でした。
翻って現在、こうしたやり方は非効率だとして敬遠されがちです。さまざまなメソッドが開発され導入されて、実績のあるフレームワークの中で足場の悪さを感じることのなくスマートに議論を進めることができます。しかし、馴化された環境で野生に対抗できるでしょうか。
当時の談論風発の雰囲気を令和風にアレンジして届けたいと思います。

●標なき未来へ
一例を挙げます。終身雇用、年功序列といった特徴を持つ日本型雇用の弊害は夙に指摘されてきました。起業はそれに対する強力な代案としての魅力に満ちており、現に人気を博しています。しかし、起業というシステムそのものにはオリジナリティはあるでしょうか。日本の独創性という視点から見れば、終身雇用・年功序列というシステムのオリジナリティもなかなかのものではないでしょうか。
われわれは、正解なき時代を生きています。いままでにないことをどれだけ考え出せるか、みなさんの未来はここにかかっていると考えます。活字になっているものは、すでに古い。活字情報を押さえながら、活字にないものを創る。そうした気概を持って臨みたいと思います。

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